「歳を取ったら演歌が好きになる」という誤解

 Togetterで次のまとめを見つけました。

togetter.com

 演歌は歳を取ったら好きになるものだと思っていた…というような誤解をした人たちなどがまとめられていますが、演歌に限らず、世代が原因となっているものを年齢が原因であると誤解している例が他にもあるのではないかと思います。

 たとえば年功序列の賃金制度です。勤続年数に応じて賃金が増えるというのは事実だとしても、勤続年数よりも世代の方が大きく影響しているのではないかと疑問に思っています。

「20年前や30年前に入社した社員は確かに勤続年数とともに賃金が上昇したけど、今の社員は勤続年数か増えても賃金はほとんどあがらず、その結果、今60歳前後の世代はずっと賃金が高いけど、今30歳前後の世代はずっと賃金が低いまま」……みたいなことになっているんじゃないかということです。

 これが本当かどうか確信は持てていないのですが、一方で「勤続年数が増えれば賃金が増える」というのも正しいかどうかわかりません。そこを「勤続年数が増えれば賃金が増える」というのが正しいかのように情報を広めて、高齢世代がよりたくさんの賃金を得られるように、若い世代の負担がより高くするように誘導している可能性があります。

 本当に勤続年数で賃金が増えるというのは適切なのか、それとも、勤続年数より世代の差の方が大きいと考える方が適切なのかはわかりませんが、どちらなのか分からないのだから、「勤続年数で賃金が増える」方だけを信じて年功序列を正当化する気にはなれないなと思うわけです。

 こういうのは、「自分もいずれ歳を取ることを考えろ」みたいな主張とセットになることが多いですが、自分が歳を取ったとき、過去の老人と同じように優遇されるとは限らないのです。年功序列の例でも、年功序列だから若いうちは給料が安く、歳を取ったら歳を取ったで成果に応じた賃金体系が取り入れられて結局最後まで安いままです。

 年金制度なんかも同類ですね。「自分が歳を取ったら」という使いまわしの効くフレーズを武器にして老人への利益誘導が行われているのではないかと疑う必要があります。今の老人への年金を増やす(あるいは減らさない)ことは、仮に将来の年金受給額が増えるのだとしても、今の負担が増えることに見合うだけの金額かどうか考える余地があります。

 今の老人のクレーマーっぷりがひどいのも、歳を取ったら怒りっぽくなるのだと理由をつけて正当化したがる人を見かけますが、これだって本当かどうか怪しいものです。今の老人は少年の頃、現在の少年より犯罪が多かった世代ですし、厳しくしたほうが成長すると主張して今でいうパワハラを部下にやってのけたり、子供を虐待してきた世代です。歳を取ったら怒りっぽくなるなんていう主張を鵜呑みにして老人を擁護するのは考え直した方がいいかもしれません。

 部下や子供に「厳しく接する」振りをして自分勝手をやるのも昔は許されていましたが、今ではそうはいきません。今の老人が多くの年金をもらえるように計らったところで自分が歳を取ったときに多くもらえるとは限りません。年功序列の賃金制度を維持したところで将来も維持されるとは限りません。そういうのを信じて老人世代に騙され続けるのはやめた方がよいのではないでしょうか。

「私はいいけど、他の人が傷つくかも知れないから」みたいな詭弁

あんまり類似していないかもしれませんが、記事タイトルのフレーズを見て思い出したやつの列挙です。

「他の人がやらないから自分がやる」

他の人にとっては重要でないから他の人がやらないわけです。「自分に必要だから自分でやる」とか「自分がやりたいから自分でやる」と言うべきです。

「泥棒に入られたらどうするつもりなのか」

…と言って泥棒に入って住人に説教をするのが説教強盗です。説教強盗にしろ、この記事のタイトルのフレーズにしろ、そう言っている人が問題なのです。

「~に面と向かって言えるのか」

言い方が違うだけで「他の人が傷つくかもしれない」と理屈は一緒です。「他の人が傷つくかも知れないから」の「他の人」のところが「~」に置き換わっています。

この言い分だと、~に面と向かって言わないようにTPOを弁えていれば問題がないことになるので、「自分はその発言が気に入らない」と素直に言うべきです。

「社会に出たら通用しない」

これもTPOをわきまえていれば、つまり、社会に出る前にやる分には問題ないことになります。こんな変な言い方をせず、自分にとってはこれが不都合だからこう改めてほしいとちゃんと説明するべきです。


元ネタは以下の記事です。こういう、自分の願望・自分の都合でしかないものを人のせいにするフレーズ多いよな、と思ったので例を挙げてみました。

blog.tinect.jp

「犯罪者が悪い」は詭弁である

 直近のニュースの内容によっては(というより基本的には)、タイトルのようなことを言い出すと犯罪者擁護だと非難されそうですが、ちょうどいい具合に一般的な感覚とはずれた使い方をする人が出てきたのでこの機会に投稿してしまいます。

 状況の説明としてスポーツ報知の記事を引用します。

藤川は12日にX(旧ツイッター)で「この服でも私は電車に乗るタイプです」とつづり、肩や腕を見せた薄手のドレス姿で電車に乗る姿をアップ。この投稿に「なんかやめといたほうがいいと思う 犯罪にあってからじゃ遅い」との声が寄せられると、藤川は「昔から思うけど私がどんな服着てても、そんな服着てる方が悪いって風潮いつになったら終わるの?笑 普通に犯罪者が10000万%悪いし 私が犯罪者のために好きな服着る気持ち制限するの、なぁぜなぁぜ?」と反論し、反響を呼んでいた。

「股下85センチ」で話題の20歳・藤川らるむ、電車内で服装批判に反論「犯罪者が10000万%悪い」 : スポーツ報知

 私の見解としては、「(薄手の)服着てる方が(痴漢よりも)悪い」とは思いませんが、「(薄手の)服着てる方のは悪い」と思います。

 犯罪の話が出てくると犯罪者と被害者の比較がどうこう言い出す人が多々いますが、タイトルに挙げたようにこういうのは詭弁だと思います。比較というのは、AさんとBさんを比較しても意味がないのです。一般に、比較して意味があるのは、自分の行動Aと自分の行動Bのどちらが自分にとって良いかどうかという場合です。「商品Aと商品Bのどちらを買うべきか」という比較は意味がありますが、「犯罪者と被害者のどちらが悪いか」は比較する意味がありません。「犯罪者の方が悪いから犯罪をやめよう」みたいなことを言ったところで実際に犯罪がなくなったりしないからです。

 犯罪に関して意味のある比較はどういうものかというと、たとえば「家の鍵をかけ忘れたかどうか確認に戻らなくても良いかどうか」などです。確認に戻るとそれだけ時間を費やしますが、失う時間と空き巣に入られるリスクを比較するわけです。他に、「危険な場所を通過しても問題ないか、迂回するべきか」とか「ストーカー被害を警察に訴えても取り合ってくれないから何も対策しないのか、民間の警備会社に依頼するべきか」とか「電車で見かけた変な奴と距離をとるべきか」などです。

 いずれにしても、あくまで比較するのは自分の行動AとBです。リスクを見誤って犯罪に遭うのはリスクを見誤った自分が悪いということです。犯罪者が悪いという結論にしたところで、それで自分が犯罪に遭わなくて済むということはありません。「犯罪に遭うリスクなんて一般の人に分かるわけないだろ」みたいなことを言い出す人もいそうですが、そう主張したところで自分が犯罪に遭わなくて済むということはありません。「分からないから考えないようにした」「他人に文句を言うだけ言ってそれ以外は何もしない」というのも1つの判断です。

 さて、この記事はこんなタイトルですが、犯罪者と被害者の比較がどうこういう主張について『「犯罪者が悪い」は詭弁である』と言っているに過ぎません。防犯よりも好きな服を着ることを重要視すること自体を否定する気はありません。藤川さんの場合、これはこれで当人がこういう判断をしたということだと思います。

人間原理は生存バイアスみたいなものと理解した

 何をきっかけに知ったのかは覚えていませんが、最近、「人間原理」という概念が気になっていました。人間原理というものは「この宇宙は人間が存在するようにできている」なんていう宗教染みた主張をしているそうです。それにも関わらず、物理学者が人間原理を無視できない状態になっているらしいです。それで、人間原理とは一体どういうものなのかを知るため、この本を一通り読んでみました。

宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理宇宙論 (講談社現代新書) Kindle

amzn.asia

 物理学者が人間原理を無視できなるまでの経緯として、物理定数がなぜこの値なのかという話がよく出てきます。電磁力と重力の強さの比などの物理定数が現実の値と少しでも違う値になっていたら人間が生きていけるような宇宙ではなかったことが想定されるのですが、じゃあなぜ物理定数はこの値なのかを物理学者が研究してきた経緯が説明されています。

 で、人間原理というは「実は宇宙というのは1つだけ存在するわけではなくて、それぞれ物理定数が異なる宇宙がたくさんあるのであって、たまたま人間が住めるような値を取る物理定数の宇宙に人間が生まれてきただけだ」みたいな理屈でした。

 この説明を読んで拍子抜けしました。これって物理学者にとってそんなに受け入れ難い理屈なのかなと疑問に思ってしまいました。物理学を詳しく知っていると、物理定数の異なる宇宙がたくさんあるという宇宙像を受け入れられない何かがあるのでしょうか……。

 とりあえず、私としてはこの多宇宙の説明は「なるほど、それなら確かに辻褄が合いそうだ」とか「生存バイアスみたいなものかな」とか『これって単に「この宇宙は人間が存在するようにできている」のような変な説明の仕方をするから受け入れにくかったんじゃないか』という感想を持ちました。

 この本以外の説明も一応確認するべくネットで探してみると「この宇宙は人間が存在するようにできている」とか「この宇宙には人間しかいない」のような説明がいろいろと出てきたりもするので、この本で説明していない範囲で人間原理は受け入れがたい何があるのかなという疑問も少し残ってます。

EQUITYって結果の平等なのでは?

 この絵をよく見かけます。

EQUALITY and EQUITY
 この絵のEQUALITYを「平等」、EQUITYを「公平」と訳している日本語版もよく見かけますが、これ翻訳が適切でないんじゃないのかとずっと疑問に思っています。

 もうちょっと正確に言うと、EQUITYは確かに「公平」と訳しても問題はないのですが、この絵に「平等と公平の違い」なんてタイトルをつけて、この絵で言っているEQUITYに当たるものを「平等でない」かのように主張するのが違うんじゃないかということです。

 このEQUITYに相当するのは「結果の平等」と言われているもので、これはこれで平等です。

「右の、EQUITYが表している絵は公平な状態を表している」という分には多分正しいのでしょう(正しいかどうかは知らない)。「平等とは左のEQUALITYのことであって、右の絵は平等ではない」とか「左の絵が平等で右の絵が公平」みたいな説明は適切でないと思います。

ChatGPTは調べ物に向かないらしいけど……

 このタイトルの件、世の中的には良くいわれているのですが、いまいちピンと来ていません。

 私はChatGPTを使い倒しているわけではなくてプロンプト20~30件程度だったか、気が向いたときに使ったくらいと思いますが、その中でうまくいった気がするのはChatGPTに説明させることです。

 ChatGPTの出力で一番気に入ったのはこれです。

怠惰は美徳であるというプログラマの考え方を、プログラマ以外人に説明してください。

※プロンプトに脱字がありますが、脱字も脱字のまま記載しています。

 ChatGPTは次のとおりに返しました。

怠惰とは、通常は否定的な意味合いを持つ言葉ですが、プログラマーの中には怠惰が美徳であると考える人がいます。彼らは、自分たちの作業を効率的かつ正確に行うために、常に怠惰であることを目指しています。

プログラマーが「怠惰が美徳である」と言うとき、彼らは常に自動化されたプロセスを追求し、手動で作業をすることを避けることを意味しています。つまり、プログラマーは、一度コードを書けば、同じ作業を何度も繰り返す必要がないようにすることを目指しています。

例えば、同じタスクを何度も実行する必要がある場合、プログラマーはそのタスクを自動化するスクリプトを書くことができます。このようにすることで、プログラマーは同じ作業を何度も繰り返す必要がなくなり、時間を節約できます。

また、怠惰なプログラマーは、効率的な方法で問題を解決し、正確で堅牢なコードを書くことを目指します。つまり、彼らは問題を解決するために最も簡単な方法を選び、コードを効率的かつ正確に書くことを目指します。

プログラマーが怠惰を美徳と考える理由は、時間とエネルギーを節約することができるからです。彼らは、同じ作業を何度も繰り返す必要がなく、より重要なタスクに時間を費やすことができます。また、効率的で正確なコードを書くことにより、バグを減らし、プログラムの信頼性を高めることができます。

 この他、結果は載せませんが『「比喩を用いた説明は誤解されやすい」ということを説明してください。』と聞いたときの結果もなかなか良かったと思います。

「~が~であることを説明してください」というのは調べものなのかというと微妙なところもありますが、調べものなのかそうでないのかといったら調べもの寄りなのかなと思います。なので、調べものに向かないというのはいまいちピンとこないところがあります。

動物の生存競争を見ていて、種の保存は何が望ましいのか疑問に思った

 アフリカで野生の動物が生存競争をしている動画をよく見ます。

 親子の草食獣が肉食獣に襲われたとき、子どもを救うために親が肉食獣を追い払おうとする場面が多々あります。子どもが助からないのを悟って自分は逃げる親も多いですが、子どもを諦められず奮闘し続けた結果、子と一緒にエサになってしまった親もいます。

 そんなのを見ていて、子孫を残すことは本当に望ましいことなのかという疑問が湧いてきました。子育てというのは命の危機を伴うわけですが、命の危険を冒しても種を存続させるのは、その動物の個体にとってどれほどのメリットがあるのかという疑問です。

 野生の動物にとって「種」とか「絶滅」という概念は分かりません。せいぜい「自分が所属している群れ」の概念がある程度かと思います。群れとは別のところに自分と同じ種がどれくらい存在しているなんて動物が気にするはずがありません。というより、個体数を調べる手段がありません。世界的に個体数が減っていったとしても、そして最終的に絶滅してしまったとしても、その動物自身には種の絶滅を知る手段がありません。絶滅した動物も別に悲劇の生涯を遂げたわけではなくて個体の1頭1頭は普通に生きて普通に死んでいったに過ぎないのです。

 種の存続は長年続いてきたことだから望ましいことで、それを今後も続けていくために子どもを作る必要がある……という風に考えている人は多いかと思いますが、子孫を残すのは純粋に「後に続くから」続いているだけであって、特にそれが望ましいわけではないような気がします。